「今回を逃すともう後はない。」
どうもこんにちは、廃シャンツェ評論家のF木です。
冒頭のとおり、鬼気迫る思いで、2009年の大学祭最終日に留萌、小平、羽幌駅裏、羽幌築別炭鉱、士別、名寄菊山の6つの廃シャンツェをめぐる弾丸ツアーを敢行しました。
ツアーのメインであった羽幌築別炭鉱ジャンプ台についてレポートします。
羽幌 築別炭鉱ジャンプ台
50m級、30m級?
【難易度】★★★★★
【荒廃度】★★★★★★
【観光度】★★★★☆
はじめに、羽幌炭鉱の歴史について。Wikipediaによると『羽幌炭鉱(はぼろたんこう)は北海道北西部留萌炭田の中心的炭鉱。1935年操業開始。羽幌本坑、上羽幌坑、築別坑の3地区から成っていた。良質炭を算出することで知られ、大変人気があったが、1970年(昭和45年)閉山。』とある。また『スキー部』の項目では 『笠谷昌生などが活躍。また昌生の弟笠谷幸生も練習に帯同していた。~中略~ また、当時日本では大倉シャンツェに次ぐ規模を持ったジャンプ台も抱え、スキー部の練習はもちろん、大会も行われていた。』とある。
つまり、日本ジャンプ史にとっても名を残す重要な場所である。
今回の目的は築別炭鉱末広町にあったという、「築別炭鉱ジャンプ台」である。築別炭鉱地区は廃線、廃墟、廃校、廃鉱、廃シャンツェと全ての廃○好きを魅了する場所であり、羽幌炭鉱鉄道沿線に残る鉄橋をはじめとした廃線跡や巨大ホッパー、旧太陽小学校の円形体育館などは廃○好きでない人でも十分に印象的なものに映るであろう。
スキー部関係ではたしか去年の夏合宿でI野号が行ってたっけ。
おおよその場所は確認していたものの、季節は6月上旬、すでに山々は緑に覆われ、天候は雨、遠方から肉眼でのシャンツェ跡(ヤグラ)発見はなかなか困難であった。廃シャンツェ巡りはやはり4月~5月中旬頃がベストシーズンであろう。
下は築別炭鉱駅跡地付近から場所の特定の為に撮影した写真である。
どこにあるかお分かりいただけるだろうか?

廃アパート群間の道を通りいよいよジャンプ台へアタックである。

ジャンプ台への到達は先日の中山峠ジャンプ台を遥かに凌ぐ困難なものとなった。ところがここで痛恨のミスをする。おおよその距離感でジャンプ台直下あたりのところにきたものの、木々に覆われていたため下からはヤグラ跡が良く見えず、なんとなくの痕跡、斜面の傾斜で山に入った。猪突猛進の勢いで15分ほど上ったが、様子がおかしいことにきづく。斜面が緩やかすぎる。なんと道を100mほど行きすぎ、山を間違えて登っていたのである。あやうく遭難である。これにより体力を大幅に消耗する。
雨、ぬかるみ、野性味溢れる蚊の襲撃、そして行く手を阻む2m級のチシマザサと蔓性植物にすっかり気力まで奪われ、意気消沈してしまい、なかば諦め半分で岐路に着きかけた。
と、そのとき、怪しげな影を発見する。
そのときの写真がこれである。これならお分かりいただけるだろう。

ま、ま、間違いない!!!!
体力、気力とも一瞬で回復。
そのときの心境は、パズーが「父さんは竜の巣の中でラピュタを見たんだ。」と言ったときの様だ、とでも言えば伝わるだろうか。
再びアタックである。
突撃すること15分程。
ササを分けて入り、木々の枝にしがみ付き、斜度40度近い「激斜」を登り、そしてついに感動の瞬間を迎えた。
カンテ到達。

1960年頃の写真と比べると感動も一入である。
建設から半世紀経っているということもあり、ヤグラの骨組みはところどころ欠落している箇所があった。
カンテ付近は比較的傷みが少なく、念のため(?)登ってみたところ、骨組みには、なんと鉄道のレールが利用されており、鉄道×廃シャンツェのコラボに危うくカンテの上から落下しそうになった。
ふっと横を見ると大シャンツェカンテの横には小シャンツェのヤグラがたたずんでいた。

当時3基あったという話であったが小さい方も残っているとはただただ驚きである。
そのときの心境は、動かないロボット兵に対してパズーが「さっきのロボットじゃない!」と言ったときの様だといえば伝わるだろうか。

写真はアプローチ中ほどの所である。
私の身長は169cmであるが、いかに築別炭鉱ジャンプ台が大きかったかということがわかっていただけるであろう。

アプローチ全景
建造当時、山奥深くにこれほどの規模のシャンツェを作った羽幌炭鉱の興隆は、人一人いない今の姿からは到底想像できないものである。
これらの写真をもし当時選手だった人たちが見たら、どんな風に思うのだろうか。
この後下山し、興奮冷めやらぬ中、次なる目的地、士別へ向かった。
築別炭鉱跡はかつて住居のあったところも含め地域全体が森にのまれようとしている。戦後日本の復興に多大な貢献をした炭鉱ではあるが、一部の物好きな人々にしか注目されない産業遺跡を、もう少し有効利用できる手立てはないものだろうか。
なお、足掛け5年に渡る廃シャンツェ巡りもいよいよ佳境に入り、残すは北見地方2つと空知各炭鉱跡を残すのみとなっている。そんな私からのアドバイスとしては、廃シャンツェ巡りには少なからず危険が伴うので、集団で行動するなど安全にはくれぐれも留意したほうが良い、という点である。
今回、現地を訪れるにあたり、カラーズネット:羽幌炭鉱写真展、国土計画局:国土情報ウェブマッピングシステムなどのHPを利用した。
また、情報を提供していただいたジャンプ関係者の皆様に対して、この場を借りて感謝の意を申し上げる。
どうもこんにちは、廃シャンツェ評論家のF木です。
冒頭のとおり、鬼気迫る思いで、2009年の大学祭最終日に留萌、小平、羽幌駅裏、羽幌築別炭鉱、士別、名寄菊山の6つの廃シャンツェをめぐる弾丸ツアーを敢行しました。
ツアーのメインであった羽幌築別炭鉱ジャンプ台についてレポートします。
羽幌 築別炭鉱ジャンプ台
50m級、30m級?
【難易度】★★★★★
【荒廃度】★★★★★★
【観光度】★★★★☆
はじめに、羽幌炭鉱の歴史について。Wikipediaによると『羽幌炭鉱(はぼろたんこう)は北海道北西部留萌炭田の中心的炭鉱。1935年操業開始。羽幌本坑、上羽幌坑、築別坑の3地区から成っていた。良質炭を算出することで知られ、大変人気があったが、1970年(昭和45年)閉山。』とある。また『スキー部』の項目では 『笠谷昌生などが活躍。また昌生の弟笠谷幸生も練習に帯同していた。~中略~ また、当時日本では大倉シャンツェに次ぐ規模を持ったジャンプ台も抱え、スキー部の練習はもちろん、大会も行われていた。』とある。
つまり、日本ジャンプ史にとっても名を残す重要な場所である。
今回の目的は築別炭鉱末広町にあったという、「築別炭鉱ジャンプ台」である。築別炭鉱地区は廃線、廃墟、廃校、廃鉱、廃シャンツェと全ての廃○好きを魅了する場所であり、羽幌炭鉱鉄道沿線に残る鉄橋をはじめとした廃線跡や巨大ホッパー、旧太陽小学校の円形体育館などは廃○好きでない人でも十分に印象的なものに映るであろう。
スキー部関係ではたしか去年の夏合宿でI野号が行ってたっけ。
おおよその場所は確認していたものの、季節は6月上旬、すでに山々は緑に覆われ、天候は雨、遠方から肉眼でのシャンツェ跡(ヤグラ)発見はなかなか困難であった。廃シャンツェ巡りはやはり4月~5月中旬頃がベストシーズンであろう。
下は築別炭鉱駅跡地付近から場所の特定の為に撮影した写真である。
どこにあるかお分かりいただけるだろうか?

廃アパート群間の道を通りいよいよジャンプ台へアタックである。

ジャンプ台への到達は先日の中山峠ジャンプ台を遥かに凌ぐ困難なものとなった。ところがここで痛恨のミスをする。おおよその距離感でジャンプ台直下あたりのところにきたものの、木々に覆われていたため下からはヤグラ跡が良く見えず、なんとなくの痕跡、斜面の傾斜で山に入った。猪突猛進の勢いで15分ほど上ったが、様子がおかしいことにきづく。斜面が緩やかすぎる。なんと道を100mほど行きすぎ、山を間違えて登っていたのである。あやうく遭難である。これにより体力を大幅に消耗する。
雨、ぬかるみ、野性味溢れる蚊の襲撃、そして行く手を阻む2m級のチシマザサと蔓性植物にすっかり気力まで奪われ、意気消沈してしまい、なかば諦め半分で岐路に着きかけた。
と、そのとき、怪しげな影を発見する。
そのときの写真がこれである。これならお分かりいただけるだろう。

ま、ま、間違いない!!!!
体力、気力とも一瞬で回復。
そのときの心境は、パズーが「父さんは竜の巣の中でラピュタを見たんだ。」と言ったときの様だ、とでも言えば伝わるだろうか。
再びアタックである。
突撃すること15分程。
ササを分けて入り、木々の枝にしがみ付き、斜度40度近い「激斜」を登り、そしてついに感動の瞬間を迎えた。
カンテ到達。

1960年頃の写真と比べると感動も一入である。
建設から半世紀経っているということもあり、ヤグラの骨組みはところどころ欠落している箇所があった。
カンテ付近は比較的傷みが少なく、念のため(?)登ってみたところ、骨組みには、なんと鉄道のレールが利用されており、鉄道×廃シャンツェのコラボに危うくカンテの上から落下しそうになった。
ふっと横を見ると大シャンツェカンテの横には小シャンツェのヤグラがたたずんでいた。

当時3基あったという話であったが小さい方も残っているとはただただ驚きである。
そのときの心境は、動かないロボット兵に対してパズーが「さっきのロボットじゃない!」と言ったときの様だといえば伝わるだろうか。

写真はアプローチ中ほどの所である。
私の身長は169cmであるが、いかに築別炭鉱ジャンプ台が大きかったかということがわかっていただけるであろう。

アプローチ全景
建造当時、山奥深くにこれほどの規模のシャンツェを作った羽幌炭鉱の興隆は、人一人いない今の姿からは到底想像できないものである。
これらの写真をもし当時選手だった人たちが見たら、どんな風に思うのだろうか。
この後下山し、興奮冷めやらぬ中、次なる目的地、士別へ向かった。
築別炭鉱跡はかつて住居のあったところも含め地域全体が森にのまれようとしている。戦後日本の復興に多大な貢献をした炭鉱ではあるが、一部の物好きな人々にしか注目されない産業遺跡を、もう少し有効利用できる手立てはないものだろうか。
なお、足掛け5年に渡る廃シャンツェ巡りもいよいよ佳境に入り、残すは北見地方2つと空知各炭鉱跡を残すのみとなっている。そんな私からのアドバイスとしては、廃シャンツェ巡りには少なからず危険が伴うので、集団で行動するなど安全にはくれぐれも留意したほうが良い、という点である。
今回、現地を訪れるにあたり、カラーズネット:羽幌炭鉱写真展、国土計画局:国土情報ウェブマッピングシステムなどのHPを利用した。
また、情報を提供していただいたジャンプ関係者の皆様に対して、この場を借りて感謝の意を申し上げる。
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ジャンプ台の変遷とか地域との関係とかで
論文書けそうな勢いですね笑
あ、お礼が遅くなった上にこの場でになってしまって申し訳ないですが、
カメラありがとうございます!
FM3だと思ったらF3でかなりテンション上がりました!
私は「廃」なものが好きであちこちの無人集落(廃村)を訪ね歩いています。築別炭鉱・羽幌鉱もそのうちの一つなので、何回も訪れました。
築別のジャンプ台も今春、知人と探しに行きましたが生憎見つけられませんでした。
写真を拝見して、夏の草木が繁茂した時期によく訪れたな、と驚きました。そして、探訪したレポートも興味深く拝見いたしました。
探訪された方は、もしかしたらもうご卒業されているのかもしれませんが機会があれば探訪した時の様子を伺いたいと思っています。
私は大学に入学する前は、名寄の自衛隊で勤務していました。菊山スキー場も何回か行ったことがあります。
興味深いレポート、有難うございました。